トゥールのグレゴリウスは『フランク史』の中で、589年、ガヴァネスと彼女の恋人による王自身に対する陰謀を発見したキルデベルト王がガヴァネスに対して小麦粉を引くうすを回す刑に、彼女の恋人に対しては両耳を切り落とし王宮のブドウ畑で一生働く刑を課したと書いています。
595年、キルデベルト王の息子ティエリー2世は、少年時代をマーレンハイムで過ごした後、ブルゴーニュ伯となります。マーレンハイムの主要品種であるピノ・ノワールですが、これはブルゴーニュを代表する品種でもあります。
メロヴィング朝の権力の移り変わりにより「王室御用達」のマーレンハイムのブドウ畑の所有者として多くが名乗りを上げました。その中でも、例えばハスラッハ修道院などは、613年付けのダゴベール王による譲渡を理由に数多くのブドウ畑の所有権を主張しました。
ハスラッハ修道院や僧院以外では、13世紀からフランス革命までのあいだ、ストラスブール市がこの地域の所有者となるまで、ヴィサンブール、マルムーティエ、アンドローの修道院がブドウ畑を所有していました。
16世紀、印刷機の発明により、詩人や作家が「boni vini rubri」(美味しい赤ワイン)を称える言葉を残しています。詩人フィッシャルトは、「Roter Marlheimer und von S. Bild, o wie milt」と語っています(サン=ティポリットの赤ワインのように、マーレンハイムの赤ワインは「美味」である)。1592年、コラムニストのベルナール・ヘルツォークは「Das Stäten Marley ist berümbt von Gewächs gutes Roten Weins」 と言って、素晴らしい赤ワインの産地としてマーレンハイムの名前を挙げています。
ある伝説によると、マーレンハイムの教会は、1683年、海で嵐に遭遇した際、ある誓いを立てた3兄弟によって建設されました。彼らは命を助けてくれるならば、村に戻った際に教会を建てると誓ったのです。こうして生還した彼らは、マーレンハイムの教会は教区最初の神父、イグナス・クラインによって1772年に増設されました。同年、村の裕福なワイン生産者たちによる寄付によって、当地に十字架の道が完成しました。